手のひらを思い出す
何もできない
こういう気持ちになる日がある。
何をする気も起きない。何も手につかない。気分はどんよりと曇っていて、しかし雨風のような苦痛もなく、困っているが、困っていない。何もできない。
痛みがあれば鎮痛剤を飲めば解決する。胃腸が悪ければ整腸剤、咳や鼻水なら総合感冒薬、情緒不安定なら精神安定剤。
あるいは、行き場のない怒りがあれば知人に愚痴を言えばいい。欲しいものがあれば買い物をして、塞ぎ込んでいるなら散歩をしてもいい。
しかし、何が不満かわからないとき、やりたいことがわからないとき、それを解決することはできない。なぜなら問題がわからないからだ。問いがなければ答えは出ない。
「どうしたらいい?」「どうしようもない」。同じやりとりを何度もしたし、そのたびに傷ついた覚えがある。明日もまた今日のような日になるだろうと思うと、どうしようもなく息苦しかった。
何も考えない、ことができない
私は考えることが好きだ。意識的に、無意識的に、いろんなことを考える。見たものから連想することもあれば、繰り返し繰り返し記憶から思い出すこともある。
しかし、考えないことが苦手だ。能力としてできない部分もあるし、何も考えられない状態に暗闇のような恐さを感じる。
シロクマについて考えないでください、という有名な話がある。考えるなと言われたり、考えないようにしようと思ったりしても、気がつけばシロクマの映像が見えている。私の視界には数え切れないほどのシロクマが居る。
手のひらを思い出す
実のところ、どうしたらいいかという万能の解答を私は持ち合わせていない。私も困っている。答えはない。
しかし、たまに思い出すメソッドがある。これを初めて聞いたのは「明晰夢を見るための訓練」という名目だったが、いまは別の形で意識することが多い。
そのメソッドはこうである。ある瞬間、気がついたときに手のひらのことを思い出すようにする。手のひらに意識を向け、必要があれば手を観察する。それだけだ。
手は意識的に動かせる感覚器だ。室温を感じ、体温を感じ、ものに触れれば触感を受ける。身体を触れば鼓動を感じる。
だからなんだというわけではない。本当に、ただ何かしらの実感覚を得るだけだ。もちろん何も解決しない。しかし、手のひらを思い出したその一瞬だけ、それまでもやもやと考えていたことを忘れる。
また今度、いつか
たぶん、いつか手のひらのことを思い出すだろう。そのときにまた会おう。時間も場所も、夢も現も関係なく、手のひらが合図だ。